青空パンダ

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March 2016

日本が嫌ならば出ていけばいい - wasting time?

人の揚げ足を取って叩くのが今の日本の風潮である。まあ、それはどこの国でも似たようなものだけれども。プライベートもなにもあったものがない時代。一方で普通の生活でもそれなりに満足できる時代でもある。そんな時代に誰が公職について世の中の役に立とうと思うだろうか。誰が、ビジネスの世界で何かを成し遂げようと思うだろうか。それでも・・・と思う人はよほどの変わり者だろう。そんな話は前回した。

そういえば、最近は保育所に入れないから日本死ねというのが流行りらしい。まあ、少子化が日本国の最大の課題なのだ。その少子化対策に俺(私)は貢献しているのだから、税金をいくらつぎこんでも俺(私)のために子供を保育所に入れろというありがちな権利の主張に過ぎないのだが、これが今のに日本では大うけらしい。政府も選挙に向けて大慌てになっている模様だ。

アホらしい話である。

過去にも書いたように少子化は何も問題ではない。少子化と経済成長は大して関係はない。少子化だから我々は豊かになれないわけでは決してない。子供が減っても一人当たりのGDPが成長していれば我々は豊かになっているわけで事実として日本はそうなっている。10年前、20年前と比べて我々の生活はあらゆる面で快適になっているはずだ。

そして子供を産まない、あるいは少ない子供でいいという選択肢は我々が選んできた道だし多くの先進国で生じている傾向だ。要は経済が豊かになれば人間は子供をほしくなくなる。ただそれだけのことなのだ。みんなが自分が幸福になる選択をしているのに何が問題なのだろうか?

子供がほうが有利な業界の人は少子化にうるさいかもしれないが人口が減ることだって悪くないし、高齢化が進むことで利益を得る業界も数多くあるわけで少子化そのものが経済成長の面から大きなマイナスであるはずがない。

ただ、膨大な政府債務の返済が不可能になるというだけだ。だが、もはや返済できないレベルの政府債務なのだからさっさと破たんしたほうがいいと考えるのは僕だけではないだろう。

子育てが昔から大変なのは言うまでもない話だ。わかって子供を産んでいるのに保育所に入れないから日本死ねなどという下品な言葉を使うのは日本人の品性が低下している表れだろう。

勿論、保育所に入れるかどうかは生活にかかわる大きな問題だし、その選考方法に問題があるかもしれないのは承知の上だ。

だが、それだったら保育所に入りやすい地域を選ぶという選択肢もあるはずだし、そもそも保育所に入りにくいかもしれないことは最初から分かっていたはずだ。また、いやかもしれないが両親を呼び寄せるとか一緒に住むという選択肢も人によっては選択可能なはずだろう。自分たちで工夫する余地はないのだろうか?

細かい話は過去にそれぞれ詳細に論じてきたのであえてこれ以上はしない。だが、子供というのは私的なメリットがあるから産むという面も強いわけだ。そして少子化は本質的に日本経済の根本的な問題でもない。それなのに、子供を産んで俺は偉いのだ。だから保育所に入れないのはおかしい。コスト度外視で税金をどんどんつぎこんで俺の子供が保育所に入れるようにしろというのはまったく非合理的だし日本の今の病理を象徴していると思うのは僕だけだろうか?それに対して子供がいない人たちや苦労して自分の力で子育てをしてきた人たち。迷惑や面倒を覚悟で自分の親に子育てを手伝ってもらって人たちが何かおかしいのでは?と声を上げられず政治家がすぐに出てきて待機児童ゼロを目指すと騒いで税金を湯水のようにつぎこむ社会は正しいのだろうか?効率性/公平性のいずれの観点からも個人的には大いに疑問である


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【読書感想】高校野球論 弱者のための勝負哲学 - fujipon

高校野球論  弱者のための勝負哲学 (角川新書)

高校野球論 弱者のための勝負哲学 (角川新書)


Kindle版もあります。

高校野球論 弱者のための勝負哲学 (角川新書)

高校野球論 弱者のための勝負哲学 (角川新書)

内容(「BOOK」データベースより)

弱小高校野球部の捕手兼四番兼主将兼監督だった野村克也。甲子園というはるか彼方の夢に近づくために、つねに知恵を絞っていた。それが野村ID野球の出発点であった。弱者が強者に勝つための秘策とは?


 野村克也(元)監督による、初の高校野球論(だそうです)。

 野村さん自身は、京都の弱小高校野球部で、しかも、「中学を卒業するときに、奉公に出されるはずだったのがお兄さんのおかげで、なんとか高校に進学できた」ということで、甲子園に縁はありませんでした。

 プロ野球に入ってからは、選手として、あるいは監督として甲子園でプレーされていたのですが。


 高校野球の話だからといって、これまでの「野村ID野球」がブレることはありませんし、「観察することと、自分で考えること、人間としての礼儀をわきまえること」というのは同じなんですよね。

 自分で問題点を抽出し、どうすればいいのか自分自身で考え、創意工夫し、さらに試行錯誤する習慣がついたのも高校時代の経験があったからだった。野村ID野球の原点といってもいいだろう。

 なにしろ、峰山高校には監督もコーチもいなかった。いや、一応部長と監督がいないと予選などの公式戦に出られないので、部長は清水先生にお願いしてなってもらい、監督は化学の先生に「ベンチに座っているだけでいいですから」と言って名前だけ貸してもらった。もちろん、ふたりともまったくの素人だった。西京極で予選があったとき、ノックする人がいないので、急遽立命館大学に入った先輩を引っ張り出したこともあった。ユニフォームがないから、私服でノックをしてもらったのを覚えている。

 だから、すべて自己流でやっていた。のちにプロ入りして先輩ピッチャーのボールを受けていたとき、私の返球が妙な変化をするというので、「おまえはどうやってボールを握っているんだ?」と訪ねられたことがある。握りを見せると、「おまえはボールの握り方も知らんのか!」と呆れられた。本来、ボールは人差し指と中指を縫い目にかけて投げる、つまりフォーシームで投げるものなのだが、私はツーシーム(人差し指と中指を縫い目に沿わせた握り方)でボールを握っていたのだ。誰も教えてくれなかったからだ。

 峰山高校で、私はキャプテンだけでなく、監督であり、部長であり、マネージャーでもあった。すべて自分で考え、創意工夫し、実行するしかなかった。


 正直、こういう環境で「伸びる」ことができる人というのは、そんなに多くないのでは、と思うのです。

 野村克也さんのような「自分でとことん考え抜く才能」がある人だったからこそ、この環境を活かせたのではないか、という気はします。

 でも、「すぐれた指導者がいないから」とか「チームが弱いから」というような言い訳ばかりしていても始まらない、というのもまた、事実なのでしょうね。

 やる人は、どんな環境でも、自分で課題を見つけて、克服していく。

 身体、すなわち基礎ができたら、次は「基本」、バッティングやピッチング、守備、走塁といった技術を教える。

 このとき大事なのは、繰り返し言っていることではあるが、教えすぎないことである。事実、メジャーリーグには、「教えないコーチが名コーチ」という言葉がある。

 指導者というものは、とかく教えたがる。まして高校生が相手となれば、おそらく言うことを素直に聞くので、手取り足取り教えてしまう。

 だが、それでは選手がみずから考えようとしなくなる。人間というのは、失敗することで自分の間違いに気づく。気づく前に指摘されても、本当には理解できない。失敗してはじめて、自分のやり方は間違っていたのではないか、もっと別のやり方があるのではないかと考える。はじめから何でも教えてしまうと、本人が問題意識をもって、自発的に創意工夫してみようという気持ちが起こってこない。指示を待っているだけになる。


 この「教えすぎない」という匙加減って難しいよな、と、子供に勉強を教えたり、後輩に仕事のやりかたを説明したりするときに、いつも考え込んでしまうのです。

 「教えすぎてはいけない」のは頭ではわかっているつもりでも、時間がかかってしまうと、つい自分で手を出したり、「自発性を育てる」という名目で、教えることをサボったりしてしまいます。

 実際に野村克也さんの監督時代のやり方をみると、僕のイメージからすれば、かなり「教えている」んですよね。とくに「考え方」については。

 基本的には、「相手任せ、ではなくて、教えられるところはキチンと教えた上で、最後のひらめき、みたいな部分は本人に委ねる」くらいの感じなのかな。


 カープファンとしては、長年チームをみてきて、「結局のところ、監督なんて、誰がやっても同じというか、資金力とか人脈が違いすぎるから、巨人とか阪神とかソフトバンクに勝つことなんてできないんだろうな……」と諦めていたのです。

 でも、野村さんが中学生のリトルシニアの監督を引き受けて1年目で、それまで10年以上予選も勝ち抜けなかった「港東リトルシニア」を、いきなり全国大会で準優勝させてしまった、というエピソードを読んで、「やっぱり、指導者の力っていうのは、大きいのだな」と思い知らされました。

 「普通の監督」でも優勝できるチームと、「名監督」じゃないと勝負にならないチームとでは、不公平であることは間違いないのだけどさ。


 この新書のなかでは、野村克也監督が、これまでの甲子園で印象に残った選手や、記憶にある試合についても語っておられます。

 1992年の星稜高校対明徳義塾の試合は、松井秀喜選手の「5打席連続敬遠」が物議を醸しました。

 この敬遠策は、試合中からスタンドの怒号を呼び、グラウンドにはメガホンなどが投げ込まれた。一時は試合を中断せざるをえなくなっただけでなく、試合後は社会問題に発展した。おおむね、「高校野球にあるまじき行為」と批判のほうが多かったように思う。

 しかし、私は明徳義塾を支持する。高校野球は、負けたら終わりだ。勝つための作戦として、なんら非難されるところはない。

 プロ野球なら別だ。なぜなら、プロ野球は「魅せる」ためのものであるからだ。ファンはピッチャーとバッターが全力を尽くした戦いを望んでいるのであり、お金をもらっている以上、選手はそれに応えなくてはならない。

 けれども、繰り返すが、高校野球は負けたら終わりなのである。第三者から見れば、敬遠は、ましてや五打席連続の敬遠は、「高校生らしくない」と映るかもしれない。

 しかし、当事者である明徳の選手たちはどうか。どんなことをしても勝ちたいはずだ。


 あのときは「高校野球なんだから……」という意見が目立っていた記憶があるのですが、野村監督からすれば、「高校野球だからこそ、あの作戦は『あり』」なのです。

 「高校野球は教育の一環なのだから」なんて言う識者もいますが、プレーしている選手たちは、「教育されている」なんていう意識はないでしょうし。

 ただ、「美しい敗者」みたいなものも、観客からすれば、甲子園の魅力ではあるのだよなあ。

 

 高校野球シーズンに野村克也監督にインタビューして、手際よくつくった新書、という感じで、「ノムラの教え」を求めている人には物足りないと思われますが、野球好きにとっては、野村監督の思い出話に付き合うのも悪くないかな、と。



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閉ざされる障害児を持つ親たちのキャリア…「児童発達支援事業」と障害児保育を考える - おときた駿(東京都議会議員/北区選出)

こんばんは、おときた駿@ブロガー都議会議員(北区選出)です。
今日はお誘いをいただき、都内にある「児童発達支援事業所」に行ってきました。
(個人的なツテでお邪魔したため、名前等は伏せたいと思います)

「児童発達支援事業所」という言葉自体、耳慣れない方が多いと思います。これは2012年4月に児童福祉法の改正で規定されたもので、障害児たち対して療育や訓練を行い文字通りの「発達支援」を行う事業所です。

以前に障害児たちが学校が終わった後に通う

「放課後等デイサービス」

についてレポートしたことがありましたが、放課後等デイサービスが文字通り就学児の放課後をサポートするのに対して、児童発達支援所は未就学児が支援を受けて育つ大切な居場所となっています。

参考:
障害児たちは放課後、何をしているのか?「放課後等デイサービス」の実態を学ぶ

施設長に現場の状況についてお伺いしましたが、放課後等デイサービス同様、様々な課題を抱えています。

まず人員配置。国の基準では、こども5人:スタッフ1人の割合になっています。認可保育園などの基準と同等で、人件費の補助金もこの割合で支給されます。

ところが、実際に私も1時間ほど子どもたちと遊びながら療育の様子を拝見させていただきましたが、5:1とか完全に無理ゲーです。

知的や発達など様々な事情を持っている子どもたちなので、その行動はまさに予測不能。今日は5人来ていたお子さんに対して、スタッフの数は4名。ほぼマンツーマンじゃないとまともな療育は難しいとのことでした。

そしてまたこれも放課後等デイサービスと類似の問題点として、介護などと異なり障害の度合いによって加配がつかないこと。

知的と発達が重複している重度障害児を受け入れても、比較的軽度な発達障害のみの子どもを受け入れても、事業者が得られる利益≒補助金は変わりません。

重度障害のお子さまを受け入れればその分、スタッフの配置を手厚くして対応しなければなりません。

その結果、どんなお子さんでも受け入れようと頑張る事業者ほど、収益が苦しくなって事業継続が難しいというジレンマを抱える事になります。

一方で、利用者サイドにも悩みは尽きません。まず放課後等デイサービスとの違いは、就学児は特別支援学校に通っている時間がありますが、未就学児には学校がありません

そして障害児保育の分野に乗り出した社会起業家の駒崎弘樹さんが主張している通り、残念ながら我が国の福祉では、障害を持った乳幼児・未就学児を預ける保育インフラは極めて脆弱なものになっています。

通常の保育所や幼稚園では、軽度でも知的や発達の障害児は「うちでは対応できない」と断られるケースが大半です。
(区立幼稚園ですらも!)

そこで頼みの綱となる児童発達支援所ですが、子どもを預かってくれるのは長くて10時~14時のおおむね4時間程度。短い日は2時間となっています。これではフルタイムで働くなど夢のまた夢です。

つまり多くの保護者(ほとんどの場合母親)は、子どもに障害が発覚したその瞬間にキャリアを閉ざされることになります。

2016-03-31
(画像は障害児保育ヘレンHPより)

こうした状況を打破するために民間レベルでは、フローレンスさんが日本初の長時間障害児保育所を設立しましたが、本来であればこれは行政がもっともっと注力して行うべきことです。

「保育と療育は別物」
「障害児を長時間、保育所に預けるのはいかがなものか」

なんて縦割り行政や保守的な理想論を爆発させていないで、現実に即した政策的投資を実現していくべきでしょう。

特にこれから、発達障害児はますますの増加が見込まれます。その保護者たちのキャリアを閉ざす損失を考えれば、この分野への投資は決して無駄にならないはずです。

その他にも障害児たちの成長過程において、就園・就学・就労のタイミングで行政支援が途絶えがちになるなど、縦割り行政の改善とトータルな支援の必要性など、様々な課題を改めて痛感しました。

まだまだ世間の理解も追いつかない・かつては今ほど問題になってこなかった障害児保育・療育の分野は、医学の発達とともにこれからますます大きな社会課題になることは間違いありません。

いままさに時代の過渡期にいる人々がもっとも苦しむことがないよう、早期の支援充実に向けて、微力ながらしっかりと政策提言していきたいと思います。

訪問を受け入れてくれた関係者の皆さま、本当にありがとうございました!
それでは、また明日。

おときた駿 おときた駿 プロフィール
東京都議会議員(北区選出)/北区出身 32歳
1983年生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトングループで7年間のビジネス経験を経て、現在東京都議会議員一期目。ネットを中心に積極的な情報発信を行い、地方議員トップブロガーとして活動中。

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安保法制施行を受けて日本の安全保障について改めて考えてみるー政府法制では茹でガエルになります - 室伏謙一

3月29日、いわゆる安保法制、政府の言うところの平和安全法制が施行された。この法制、反対派からは「戦争法」と呼ばれているが、筆者は「戦争法」などと全く思わない。安倍総理の答弁ではないが、「戦争法」という呼称は法制の内容とは関係のない単なるレッテル貼りである。

 施行された安保法制にせよ、当時の維新の党が提出した安保法制独自案にせよ、基本的な目的は、戦争のための法制ではなく、戦争を防ぐため、戦争に巻き込まれないための法制だからである。

 ただし、政府の安保法制については、基本的な安全保障認識、国際政治についての認識に大いに問題がある。更に、日本を取り巻く安全保障環境についての正しい認識を踏まえた上で、これから日本という国家をどうしていくのかについての国家観がないという問題がある。したがって筆者は政府の安保法制に反対である。

 では、どう問題なのか?本当はどうなのか?これは安保法制が国会において審議されている最中、幾度となく主張し、解説してきたことであるが、順不同に手短に指摘すれば、大体次のとおり。

①政府の安保法制は国防を他国に依存しようという考え方に基づいていること。(一国では国は守れないと、一国の総理が臆面もなく話していた。だから中国にナメラレ、米国のprotect state扱いされる。)
②自主防衛力の強化に法制及び軍備の両面で取り組むものではないこと。
③同盟を友人のような関係と錯誤していること(これは戦前の日英同盟の時も同様。日英同盟はドイツ帝国のカイザーの発案で、英国はアジアでの勢力均衡に日本を利用するためにそれに乗っかっただけ。)。
④日米安全保障条約は相互防衛条約ではなく、また相互に相互の防衛義務が規定されていないにも関わらず、あたかもそれが規定されているかのような誤った説明を行い、その完全な発効(安倍総理は国会答弁で「発動」としていた)のためには安保法制が必要であるとしていること(政府の安保法制は日米安保条約を施行するための法制ではない。)。
⑤中国の東アジアにおける地域覇権は後10年もしないで確立されるが、アメリカにはそれに対抗する国力もなければそのつもりもないこと。最近のドナルド・トランプ氏の発言はそうした実態を如実に表している。そもそもアメリカは東アジア外交では対中関係を最も重視。たとい台湾が併呑されたとしても、カタチ上は抗議はするだろうが、それ以上は何もしないだろう。これは尖閣が中国に奪取された場合についても同様である。
⑥要するに、アメリカの一国覇権確立の野望というか幻想はとっくに崩壊しているということ。
⑦日本は米露中と北朝鮮という4つの核保有国に囲まれており、それら全ての国家が日本にとっては脅威であること。
⑧核保有国同士は戦争はしない、つまり、繰り返しになるがアメリカが中国に戦争を仕掛けることはないこと(ただし代理戦争はあり)。
⑨ワシントやニューヨーク攻撃できるICBMを保有するに至った北朝鮮に対しもアメリカは戦争を仕掛けられないこと。
⑩冷戦終結後、アメリカは日本を仮想敵国の一つにしており、戦後一貫して採ってきた「日本には自主防衛力を持たせない」という戦略を一層強化してきていること(これは中国も承知の上というか了解済み)。
⑪そして日米安全保障条約はそのための条約であること。要するに、現行の日米安保を強化するための法律である政府の安保法制は、自国の防衛力を強化して我が国対する脅威を取り除くどころか、自国の防衛に必要な手足を放棄することにつながるに等しいということ。

 こうしたことは、リアリズムの国際政治学者や安全保障の実務家であれば分かっているはずの話であり、自民党にもそうした知見をお持ちの議員はいるはずなのだが、どうしてしまったのか、全く合点がいかない。あえてそうせざるを得ないのか、それともアメリカとは同盟関係であり友情で結ばれた関係であり、アメリカのために尽くせばアメリカに守ってもらえると、本気で信じ切っているのか。後者であれば、まさに「井の中の蛙」であり、そのうち日本は「茹でガエル」になってしまうだろう。

 (なお、安保法制施行に際して行われたデモについて、根本的な認識は異なるものの、これを否定するものではない。安保法制の審議を契機として問題意識を持って、その廃止を目的として団結して行動する若者には敬意を表している。(それについては拙稿「デモについて考えるー安保法制反対を通じて、デモのためのデモから意思表示のための団体行動へ」をご覧いただきたい。)ただし、その問題意識の先にある、これからの独立国としての日本の国家像やその立場を守るためになすべきことについても議論し、思いを馳せて欲しいものである。)


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情報監視審査会(特定秘密保護法)の審査報告書について - 瀬畑源

2016年3月30日、特定秘密保護法運用の監視を行う国会の情報監視審査会が、今年度の報告書を提出しました。

衆議院情報監視審査会報告書
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/jyouhoukanshihoukokusyo.htm

参議院情報監視審査会報告書
http://www.sangiin.go.jp/japanese/ugoki/h28/160330.html

概要の紹介と簡単なコメントをしておきます。

報告書を比較します。

衆議院は各行政機関からのヒヤリング結果をかなり詳細に資料として付けています。
内容はどういった情報を特定秘密に指定しているのか(いないのか)という運用の概略について、ひたすらに情報収集を行っているという印象です。
また、どうやってこの審査会を機能させるのかという制度論の部分の議論も多いです。それに関連して、政府に対して「意見」を6項目付けています。

参議院は資料があまり充実しておらず、意見も特に付けていません。
野党が開催を要求できる人数を満たしている(3分の1以上)ため、衆議院の倍近く開催し、特定秘密を実際に提出させて議論するなど、衆議院より特定秘密の「内容」に関わる問題を議論していました。
なので議論の内容自体は面白いです。

衆議院が付けているような具体的なヒヤリングの結果を、参議院の報告書にも載せてほしかったというのが率直なところです。


報告書を読んでの感想ですが、所属した議員は頑張って職務に取り組んでいたとは言えると思います。
秘密保護法や安保法の反対運動のプレッシャーなどもあったでしょうが、自分達がきちんとこの審査会を軌道に乗せなければならないという意識は強くあったのではないでしょうか。

ただ、官僚からきちんと資料が出てこないことが多かったようです。
衆議院の報告書に次のような部分があります(12頁)。

情報監視審査会において、特定秘密そのものではない事項についても、政府は「答弁を差し控える」旨の答弁をすることが多かった。情報が開示されないと審査会の任務である特定秘密の指定が適正かどうかの調査ができないとの発言が委員からなされているところである。
〔中略〕
額賀福志郎会長から、審査会は特定秘密に関する国民と行政との接点にあるとの観点から、国益と国民の利益をよく勘案し、より良い方向性を作っていけるように関係者が努力する必要がある旨の指摘が幾度もされているところである。


与党自民党の委員長が「幾度も」指摘をしているというところから見てもわかるように、漏洩に対する罰則まで用意している審査会においてすら、答弁を拒否されたり、情報が出てこなかったりしたことが多かったのでしょう。
与党が圧倒的多数の衆議院の側が、「意見」をつけて文句を言いたくなるのだから、よほどのことだと思います。

衆議院側が出した意見は6つあります。

(1)特定秘密の内容を示す名称(特定秘密指定管理簿の「指定に係る特定秘密の概要」及び特定秘密指定書の「対象情報」の記載)は、特定秘密として取り扱われる文書等の範囲が限定され、かつ、具体的にどのような内容の文書が含まれているかがある程度想起されるような記述となるように、政府として総点検を行い、早急に改めること。
 その上で、各行政機関が特定秘密の内容を示す名称の付け方に関し、各行政機関の間でばらつきが出ないよう、横断的な事項について政府としてある程度統一した方針を策定し、公表すること。
特定秘密の「名称」や「概要」があまりに曖昧すぎて、「審査することは極めて困難であり、不適切」(報告書10頁)な状況であるとのこと。
内容がある程度わかるように具体的に書けということです。

行政文書のファイル管理簿ですら、文書名の曖昧さ(検索して特定されないように、わざと曖昧な名称にする)は問題になっており、特定秘密でも同様の問題が起きているということでしょう。

(2)特定秘密を保有する行政機関の長は、指定された特定秘密ごとに特定秘密が記録された文書等の名称の一覧(特定秘密文書等管理簿)を、特定秘密ごとの文書等の件数とともに当審査会に提出すること。文書等の名称からその内容が推察しにくい場合は、文書等の内容を示す名称をもって説明すること。
 内閣府独立公文書管理監は、特定秘密文書等管理簿を提出させ、それを基に文書等の内容を示す名称となっているか否かを審査し、不適切と思料するものについては改めること及びこれらの経過につき当審査会に報告することについて検討すること。
(1)に関連して、「特定秘密文書等管理簿」を提出せよという意見。
審査会には「指定」管理簿は提出されますが、「文書」管理簿は提出されません。
「指定」管理簿は「こういった情報類型を特定秘密にします」という管理簿であるにすぎません。実際に管理しているのは「文書」管理簿です。
こちらを出さないと監視ができないと主張しています。

後半部分は、文書管理簿を見ることができる独立公文書管理監(内閣府で特定秘密保護法の監視を担う)が、審査会に報告をすることを検討せよということです。
これは(6)とも関係しますが、国会の審査会と内閣府の独立公文書管理監との関係は現在何も考えられていないため、そこを繋いで国会への報告義務を課そうとしています。

この(2)の部分はかなり重要な意味を持つと考えます。

国会が監視するとしても、全ての文書をフラットに監視できるわけではありません。
リストなどを用いて問題のある書類をピックアップして検証するという作業になる以上、まともなリストが提出されていない限り、機能は制限されることになります。

(3)特定秘密を指定する行政機関において、特定秘密を含む文書等の保存期間は、当該特定秘密の指定期間に合わせることも考慮した上で、それ以前の保存期間を設定する場合や特定秘密の指定期間満了前に当該特定秘密を含む文書等を廃棄する場合には、内閣府独立公文書管理監に合理的な説明を行うこととし、独立公文書管理監は、上記の運営状況について、定期的に当審査会に対し報告することとする制度を構築するよう検討すること。
 また、1年間に廃棄した文書等及び今後1年以内に廃棄予定の文書等(特定秘密の指定期間が切れる場合を含む。)について、その件数と、文書等の名称(名称から文書等の内容が推察しにくい場合はその内容)を当審査会に報告すること。
さらっと間に挟まっているが、かなり重要な事実が明らかになっています。
以前から私はブログでこの危惧を書いていましたが、文書の保存期間が満了した時に「特定秘密」の指定期間が残っていた場合、特定秘密を解除せずに廃棄することを、この法律は排除していません。


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